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〜海のサムライ「広瀬武夫」の生き方に学ぶ〜 (平成23年6月) |
すみわたる青空に夏の気配が感じられる季節となりました。関東大震災から早や3ヶ月がたとうとしておりますが、被災者の人たちは、長い避難所暮らしにも限界を感じていることでしょう。それに対して政局はというと、相変わらず茶番をくり返すばかりで、混迷が続きます。 さて、当法人では、各部署で上半期目標及び年間計画が仕上がり、それぞれに実践で取り組んでおられると思います。この目標が自分たちの1年後の行く先です。行く先が決まらず、ただ頑張っているだけでは道に迷い込みます。その状況が先に申し上げた現在の政局ではないでしょうか。 幕末から明治の時代には、あるべき日本の姿を思い描き見えない道を駆け抜けた志士たちがたくさんいました。 中でも、明治という坂道を懸命に駆け登った一人に「海のサムライ」と呼ばれた広瀬武夫がいます。この人物は以外と知られてはいませんが、現在の平和な世の中に導いた功労者の1人といっても過言ではないくらいの軍人です。 ロシアに留学したことがきっかけでロシア研究者でもあり文芸家で、かつ嘉納治五郎の教えを受けた柔道家でした。 また滝廉太郎は、広瀬とは大分県竹田市の同郷であり、とりわけ「荒城の月」は滝の尊敬する広瀬を思い描きできた曲だそうです。 そして何よりも司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公のひとり、秋山真之は海軍兵学校では広瀬の2学年下であり、海軍時代同じ下宿で過ごしながら、広瀬を慕っていたとも言われています。日露戦争で「福井丸」の総指揮官を務めた広瀬の参謀には秋山がついていました。戦いのさ中にも決して自らを見失うこともなく、指揮官として力強く「断じて行えば鬼神もこれを避く。敵からの攻撃などはじめからわかっていること。退却してもいいなどと思ったら何度やっても成功しない。」と説き部下を守りながら自身は見事に海に散ったそうです。 今もなお「軍神」として伝えられるゆえんが理解できるエピソードです。 時代も生きるステージも今の私たちとはかけはなれた話ではありますが、広瀬武夫の生き様に触れたことは、忘れ物の扉をのぞくような貴重な経験でした。 平成23年6月1日 理事長 山口 浩志 |